KAYANOのイタリア気分 No.11
2002年11月号
長年の未開で憧れの地 カラブリア
イタリア料理に「マーレ エ モンテ」というのがある。プリモピアットのサルサ(ソース)として使われる事が多い。直訳すると「海と山」と いう意味で、海の幸と山の幸を欲張って両方使った料理の事を呼ぶ。 初めてこの料理と出逢った時に、イタリア人も日本的な感覚があるのだなと発見した思いだった。 なぜなら、会席料理の前菜にあたる八寸を思い出したからだ。これは、八寸(約24cm角)ある杉板に海の物と山の物を一緒に盛り付ける。島国で豊かな海と山の恵みに感謝の気持ちがこもった、日本らしい情緒を感じる。 同じ感覚の料理がイタリア料理にあったことは私でなくても驚く人がいるのではないですか?
まさに、この「マーレ エ モンテ」の土地が今回の話題のカラブリア地方だ。
カラブリアはアクセスが悪かったし、観光地として開発された場所も少ないので、イタリアに住んでいた時もその後も訪れる機会はなかった。御主人がカラブリア出身のイタリア人から「カラブリアの海と山は世界一綺麗よ!料理もすごく美味しいの。」と聞いたことがあった。それだけに何年も前からの私の未開で憧れの地となった。
そして2002年9月、とうとうその機会が訪れたのだ。今回は先端のレッジョカラブリアからティレニア海沿いにまずトロペアを目指し、コセンツァへと東にシーラ山脈を見ながら、カラブリアの西側を周った。美しい海とそれに迫る山々、同時にどちらの風景も楽しめる。想像通りの素晴らしい場所だった。
シチリアのパレルモやカンパーニャのナポリ、プーリアのバーリの様に、他の南イタリアの地方の様に大きな港街を持たなかったこの地方はかなり長い間、隔離され、独自の文化を築いて来た。(起源はBC8世紀のギリシャの植民都市と古いが...)
山と海、同じような条件を持った土地に北イタ リアのリグーリア地方があるが、ここはフランス国境も近く地形の条件で隔離されることはなかった。カラブリアはシチリアを初め他の南イタリアの地方に比べて貧しさ故の移民もかつては少なかったと聞いている。交通網の発達の遅れや、地形によって孤立したこともあるが、美しい土地だったからこそ、人々はそこで満足して安住 の地としたのだろう。ほんの40数年前まで物々交換で暮していたのもうなずける。
車を走らせていると海に浮かぶ小島に十字架、山の頂上に手を広げたキリスト像を何度も見かけた。イタリアはカトリックの国だが、何故か宗教色は感 じられず、宗教を超えた自然に宿る神々をどれだけ人々が大切にして来たか、その汚れのない心に言葉にならない感動を覚えた。それは神代の時代 から海の神、山の神をたたえる日本人としての感動だったのかもしれない。
初日は断崖の頂きにある小さな街「トロペア」に泊まった。 食事に入った海を下にのぞむ店で「日本人?」とマグロ漁師おじさんに声をかけられた。日本人はここまでマグロを買い付けに来るそうだ。後で話しに加わった若いオーナーのフランコさんは「トロペアにいると海にも山にも神の存在を感じる」と言って、彼のオリジナル料理をごちそうしてくれた。素朴な人々とふれあい、波の音を聞きながら、その日の夜はふけていった。
次の日、コセンツァの近くの山あいに修道院を宿に変えた、12世紀に建てられた「コンベント」を見つけた。建物の続きに美しいチャペルがある。その日はそこに一晩滞在する事になった友人と3人連れの私は、心を込めて作られたフルコースをいただいた。パンもパスタもワインまで手作りだった。清潔な部屋、美味しい食事、暖かいおもてなしで朝食までついてひとり30ユーロ(約3,60d)だという。3人分で100ユーロ出して「おつりはいいわ」と言っても、 10ユーロのおつりをすかさず持ってくる。「どうぞ教会の為に使ってください。」と言葉が自然に出て来た。金額は少なかったが、自然に育まれ た人々の美しい心にうたれた私の心の底から出た言葉だった。
友人と別れ、ローマに戻り、ピッツェリアで食事をした。日本人がひとりで食事しているのが珍しかったのか隣に座った中年の男性としばらく会話をかわすことになった。偶然彼はカラブリア出身だという。私が昨日まで滞在していた事を告げると、お国自慢が始った。「私の故郷の家は7kmで海7kmで山、バカンスの時にはその日の気分でどちらにも行けるよ。食べ物だって、新鮮な魚介、山に行けば、キノコ、木の実なんでも拾える。 唐辛子が種類が多くて美味しいんだよ。唐辛子の味の違いがわかるかい?」確かに料理も「マーレ エ モンテ」にピカンテ(辛み)が加わり本当に美味しかった。またいつかこの土地を訪れたいと心から思っている。